主として南三陸町おいて被災地支援に取り組む諸教会、諸団体そのリーダーたち今後の支援と宣教在り方をまとめ、この理念を共有しながら共に知恵を出し合い、取り組むことになりました。私ども「災害復興支援SBSネットワーク」もここに集約していこうと考えています。まさに神学校のできる役割と考えています。被災地のみならず、全国に展開していくことができればと思います。
良き業・宣証共同体プロジェクト21」(「YSP21」)
はじめに:
震災」によってもたらされた被災者の悲劇、今、そこに助けを必要としている人々の現実が契機として始まった救援・支援活動。「神はいるのか?」その最良の答えは福音に基づく隣人愛、良き業に励むクリスチャンたちの存在であった。
証共同体プロジェクト21」(「YSP21」)を明らかにし、「良き業・宣証共同体」神の家族、教会共同体建て上げを目指す。それは自然災害被災者支援に限らず、全国どこにおいても、それぞれの地域にある教会共同体が地域社会の中で助けを必要としている方々に福音に基づく良き業を実践し、神の救いの計画を実現する「宣証」に取り組むことである。
そのために共有できる諸教会と共にネットワークを築き「良き業・宣証共同体プロジェクト21」(「YSP21」)を推進する。この取り組みが聖書自体の意図を実現するものとして共に考え、行動し、検証する。
主要理念:
「YSP21」の目指す教会共同体:地域・町の繁栄に寄与・貢献する教会共同体を実現する(クリスチャン個々人、クリスチャン家族、事業家を含む)。
1. 聖書の順序に見る教会共同体の拡がり:
(イ)教会共同体はキリストの宣教大命令に始まる(マタイ28:19)
(ロ)そして、福音に生きるキリスト者共同体の存在、その良き業に生きる存在を前提に宣教は拡がるという宣教のサイクルが確立した(使徒の働き、テサロニケ、ローマ書簡、マタイ5~7「山上の説教」テトスその他)。
(1)創造主なる神への畏敬の念:「信仰・希望・愛」に基づく人格の成熟
(エペソ1:15~19、Ⅰコリント13)
(2)「人はみな、上に立つ権威に従う」社会秩序の尊重
(ローマ13、Ⅰテモテ2、テトス3)
(3)主にある自由、自律と自立(ローマ14、ガラテヤ5)
(4)キリストの福音に基づく「隣人愛」(ローマ13:8~14:23)
(5)人としての本質に関わる額に汗する労働の尊さ(Ⅱテサロニケ3)
(6)家族愛(エペソ5)
(7)支え合う教会共同体神の家族に生きる(Ⅰテモテ5:1~16、テトス2)
2. 人道支援のみに終わらない救援・支援:「見える福音・生き方」としての良き業の伴う支援を考え、実践する(パウロ書簡)
3. 報いを求めない最善の支援を考え実践する(使徒20:35)
4. 町全体の復興・繁栄に至る支援を共に考え取り組む(エレミヤ29:4~7、ダニエルの模範、それを反映したパウロ、ペテロの教え)
(1)町への人材派遣(就職・ボランティア)
(2)相乗効果をもたらす協調関係
(3)救援基金創設
5. 良き業に基づく誠実な救援・支援活動を通して、「生き方」に関する「問いかけ」が起こる救援・支援を共に考え、「宣証」の実を結ぶ(コロサイ4:3~6)
6. 私たちの「生き方」について、その「希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意」(Ⅰペテロ3:15)を生き方と共に備える
7. 文化とその風土の中で神学する
クリスチャンは地域社会およびこの世での知恵深い日常生活が求められている。しかも文化的問題と実態を体系的に明らかにしつつ、クリスチャン信仰共同体を取り巻くその文化とその風土へ、どのように応答することができるかを考える。とりわけ異なる世界観と諸宗教にいかに関係し、親しみつつ、決してすでに形作られているいわゆるキリスト教文化を律法的に押しつけることなく、自らの信仰を守り表明していけるかを考える。つまり文化とその風土の中で神学することである。
「YSP21」活動指針
1.「良き業・宣証共同体プロジェクト21」(以下「YSP21」)に参加する諸教会は「YSP21」の理念を共有し、共に「良き業・宣証教会」の建て上げを目指す。また共に研修、訓練し(宣証訓練)、この理念の実証に努める。
2.「YSP21」はその理念の実証の場として「3.11大震災」以来、継続している「南三陸町」の復興に寄与・貢献するよう取り組む。
3.南三陸町をはじめ、3.11大震災被災地での支援活動は地域・町に寄与貢献する教会を建て上げるリーダー、ボランティアの実践の場として活動する。とりわけ、次世代のリーダー育成のために理論と現場を提供する。
4.「YSP21」は教会の求めに応じてボランティアチーム、宣教チームを派遣できる体制を整える。ただし、それぞれのチームはネットワーク所属の教会派遣とする。
5.「YSP21」の活動経費はすべて、賛同する方々の献金によるものとする。
(文責:森谷正志)
“Testimony through Good Works Project 21” (Hereafter referred to as [YSP21])
Opening Statement:
YSP21 was started in response to the tragic plight of the 3.11 Earthquake & Tsunami Disaster victims.) The best answer to the question “Is God present?” is the presence of Christians pouring out love and doing good works based on the Gospel.
We want to make it clear that meeting people’s needs and evangelism go together toward the goal of building God’s family, the church that testifies of God through good works. And this should apply not only in disaster areas but everywhere in Japan, with local churches giving help to those in need.
In order to better achieve this, we would like to create a network with churches that share the same goals and work together in carrying out YSP21. We consider this coming together to be putting into practice and affirming the intention of Biblical instruction.
Main Concepts
YSP21’s goal for churches is to build churches (including building Christians, Christian families and Christian entrepreneurs) that work for and contribute to the well-being of their local areas.
1. The biblical model for the spread of churches:
a) The church starts with the Great Commission. (Matt.28:19)
b) In the pattern of missions work that then develops, we see that the church spreads only when there are local Christians living their lives and doing good works based on the Gospel. (Acts, Thessalonians, Romans, Mt. Ch 5~7 ‘Sermon on the Mount’, & Titus amongst other passages)
1- Reverence for the creator God: [based on maturing in “Faith, Hope, and Love” (Ephesians 1:15~19; 1 Corinthians 13)
2- “Submit to those in authority over us.” Respect for social order (Romans 13; 1 Timothy 2; Titus 3)
3- Self-control and Independence, freedom in the LORD (Romans 14; Galatians 5)
4- Love of our neighbors which is based on the Gospel of Christ (Romans 13:8~14; vs. 23)
5- Respect for labor and its demonstration of a person’s intrinsic value (2 Thessalonians 3)
6- Love for family (Ephesians 5)
7- Living our lives in God’s family, the local church (1 Timothy 5:1-16; Titus 2)
2. We will assess and put into practice assistance that accompanies a lifestyle of doing good works as a way of living out the Gospel so that our relief and assistance efforts don’t end as merely humanitarian aid. (Writings of Paul)
3. We will give assistance without expectation of rewards, aiming for the best for those who receive it. (Acts 20:35)
4. We will together undertake assistance that rebuilds the whole community and leads to well-being for all. (Jeremiah 29:4~7; Examples from Daniel; teachings of Paul & Peter that reflect these values)
1- by sending personnel into the area (paid staff & volunteers)
2- by developing cooperative, synergistic relationships
3- by establishing relief funds
5. Sincere rescue and relief efforts that are based on doing good works, should elicit questions and conversations about our lifestyle that can then bear fruit through the testimony of doing good works. (Colossians 4:3~6)
6. In regards to lifestyle, we will also prepare to “always be ready to give an account to anyone about our hope…” (1 Peter 3:15)
7. We will apply theology to culture and local customs. Christians are to live our lives in local society and the larger world with great wisdom. Furthermore, as it becomes clear what cultural problems and community attitudes are, we must consider how to wrap the Christian faith into our response to the local culture and customs. Especially, we will consider how to build relationships and become more intimate with those who have different worldviews and religious backgrounds without legalistically pushing upon them all kinds of Christian cultural elements. Rather we will consider how we can protect our own faith in the midst of that. In other words, we will apply theology to the culture and customs as we encounter them.
YSP21 Guidelines for Activities
1. All churches that participate in YSP21 will share ownership of these Main Concepts and together will aim to build up churches that do good works and give testimony. They will also participate in research and training (mission training) and strive to demonstrate these concepts in their lives and work.
2. YSP21 will continue to contribute to the post 3.11 restoration of Minami Sanriku Town as a model for application of these main concepts.
3. Beginning with Minami Sanriku Town, we will be active in providing practice locations for training of leaders and volunteers who will build up churches that contribute to 3.11 Disaster recovery efforts in various localities. In any case, YSP21 will provide locations and ideas for the training up of the next generation of leaders.
4. YSP21 will, in response to church requests, provide a structure that enables volunteer teams and mission teams to be sent. However, YSP21 network churches will send out these various teams.
5. YSP21 activity expenses will all be covered by donations from those who agree with it purpose and activities.
2013/04/05
2012/01/01
新年への課題
2011年、文字通り最後の日となりました。3.11大震災以来、多くの方々に祈り支えていただきました。また具体的な支援において協力いただき、心から感謝を申し上げます。同時に被災地においては、見ず知らずの私たちを信頼し、受け入れてくださり、さらに支援を必要としている方々を紹介していただき、関係が広まっていることに感謝したいと思います。そして何よりも支援する側、受ける側といった関係ではない、互いに支え合う隣人としての信頼関係が築かれつつあることに感謝したいと思います。
先週20日(火)大森地区、21日(水)戸倉地区の波伝谷仮設での「クリスマス茶会」を行いました。24日(土)には升沢、米広、大森、中瀬、岩沢等を訪問しました。「クリスマス茶会」としては、今回は二箇所だけになりましたが、次につながる機会になったと思います。
大森地区は直接の津波被害を免れた在宅の方々で、どちらかと言えば支援に回った方々です。しかし、身内や親戚の中に津波被害を受けた方々がおります。優先順位があるものの支援を必要とした方々でもあります。ただ、完全に流された方々と比べれば回復は早いように思います。私たちの願いはこの地元の方々を通して、彼らの関係者で支援を必要としている方々への支援が展開できるようになればと願っています。今回の「クリスマス茶会」は単にお楽しみ会だけではなく、共に「支援の在り方について」意見交換をすることを目的としました。この大森地区でまとめ役を引き受けてくださった佐藤源六さんご夫妻の声がけで、班ごとに奉仕してくださった方々に、自由に集まっていただきました。
この地区に対する支援が皆無ではありません。問題は届く支援が地域の皆さんに、誰もが納得できるような仕方で届いているかどうかです。具体的な状況は分かりませんが、一部の方に片寄ったり、必要としている方に届かなかったり、支援をする、しないの原則が明確でなかったりと、むしろその支援のゆえに住民間の信頼関係が崩れてしまうという、とても残念な結果が生じていることです。いわゆる人道支援の限界であろうと思います。支援は単に物の提供に留まらず、心の問題も並行して行われなければと思います。
ますます疑心暗鬼に陥らないためにも、共に集まり、みんなが率直に意見交換ができる環境が必要です。この大森地区はおよそ半分は津波に流されました。そしてコミュニティーセンターも流されました。地区住民が共に集まる場所がありません。そのために互いに意見を交換したり、意見を聞き合ったりすることができず、結果として共に再建していこうという機会を逸しているのです。この状況を何とか克服する術はないかと、問われました。これは一つの支援グループではなく、行政の責任領域かもしれません。要望を含め、仮設の建物でも、共に集まる場所の実現のために知恵を尽くしたいものです。
同じ地域住民が揃って居住している仮設住宅は、そう多くありません。そうした状況で、一つの地区共同を築いていくことは容易でありません。それだけに大森地区のようにもともとあった地域共同体が、逆に支援のゆえに崩れるとしたら非常に残念なことです。新しい年、知恵を尽くさなければならない支援の一つです。(続く)
先週20日(火)大森地区、21日(水)戸倉地区の波伝谷仮設での「クリスマス茶会」を行いました。24日(土)には升沢、米広、大森、中瀬、岩沢等を訪問しました。「クリスマス茶会」としては、今回は二箇所だけになりましたが、次につながる機会になったと思います。
大森地区は直接の津波被害を免れた在宅の方々で、どちらかと言えば支援に回った方々です。しかし、身内や親戚の中に津波被害を受けた方々がおります。優先順位があるものの支援を必要とした方々でもあります。ただ、完全に流された方々と比べれば回復は早いように思います。私たちの願いはこの地元の方々を通して、彼らの関係者で支援を必要としている方々への支援が展開できるようになればと願っています。今回の「クリスマス茶会」は単にお楽しみ会だけではなく、共に「支援の在り方について」意見交換をすることを目的としました。この大森地区でまとめ役を引き受けてくださった佐藤源六さんご夫妻の声がけで、班ごとに奉仕してくださった方々に、自由に集まっていただきました。
この地区に対する支援が皆無ではありません。問題は届く支援が地域の皆さんに、誰もが納得できるような仕方で届いているかどうかです。具体的な状況は分かりませんが、一部の方に片寄ったり、必要としている方に届かなかったり、支援をする、しないの原則が明確でなかったりと、むしろその支援のゆえに住民間の信頼関係が崩れてしまうという、とても残念な結果が生じていることです。いわゆる人道支援の限界であろうと思います。支援は単に物の提供に留まらず、心の問題も並行して行われなければと思います。
ますます疑心暗鬼に陥らないためにも、共に集まり、みんなが率直に意見交換ができる環境が必要です。この大森地区はおよそ半分は津波に流されました。そしてコミュニティーセンターも流されました。地区住民が共に集まる場所がありません。そのために互いに意見を交換したり、意見を聞き合ったりすることができず、結果として共に再建していこうという機会を逸しているのです。この状況を何とか克服する術はないかと、問われました。これは一つの支援グループではなく、行政の責任領域かもしれません。要望を含め、仮設の建物でも、共に集まる場所の実現のために知恵を尽くしたいものです。
同じ地域住民が揃って居住している仮設住宅は、そう多くありません。そうした状況で、一つの地区共同を築いていくことは容易でありません。それだけに大森地区のようにもともとあった地域共同体が、逆に支援のゆえに崩れるとしたら非常に残念なことです。新しい年、知恵を尽くさなければならない支援の一つです。(続く)
2011/09/18
支援の先に
オレゴンからのボランティアチームが、一週目、南三陸町の図書館再開に向けた奉仕に専念し、何とか全うすることができました。寄贈された書物の仕分け、新しい図書のカバーかけ、登録された図書の展示作業などなど、根気の要する仕事でした。しかし、チーム全員がとにかく熱心に働く人たちで本当に感謝しています。何となくボランティア活動に参加した、ということに終わらない、一定の働きを成し遂げることを願いました。一週間、取り組めば、ある程度の成果が見える活動になるではと期待し、熱心に取り組むことにしました。
職員の人たちとも二日、三日となると自然なかたちで交流は深まるし、仕事ぶりや、不断の言動を通して信頼関係を築き、また「キリストを知る知識のかおり」を放つことになります。図書開設に関わる責任者の方々は避難所での支援活動の時からの関係者で、すでに信頼関係を築いている方々です。今回は、本来の仕事に復帰された彼らに仕えながらの支援となったわけです。
そういう意味では何よりも、しっかりした仕事をすることが確かな支援になるわけです。それだけに限られた時間で、なすべき仕事をしっかり教えていただき、その労に勝る仕事を成し遂げなければという緊張感がありました。とにかく真剣に最善の仕事ができるように一生懸命でした。さほど会話も仕事に関することでなければ広がらなかったのですが、それでも次第に慣れていく中で、会話が生まれます。特に3.11大震災当日のことがなにげなく話題に上りました。
あれから半年もなるというのに、つい最近のように話されます。だいぶ落ち着いた感じでしたが、何か心の整理の中でひっかるものがあるようにも思われました。地震発生後、保育園に子供を迎えに車を走らせていく途中で、避難する年配の方々から、車に乗せて、と何度も請われとそうです。ごめんなさい、子供を迎えに行くので、と断りながら走らせた時の心の葛藤や苦痛はこれまでにない経験であったようです。しかし、避難先でそのお年寄りの方々に再会し、無事であったこと、「誰も恨んでいないよ」との言葉に胸をなでおろしたというのです。生死を分ける緊張感の中での体験、その場に居合わせなければ知り得ない葛藤であったと思います。
そして翌日、チームの一人、日本人女性、エメリー姉妹がその彼女と個人的に福音のことに及ぶ深い対話に導かれたとのことです。そして、自分もクリスチャンとして生きていきたい、イエス様を信じたいと話されたというのです。クリスチャン生活をどうするのか、とまで話しが及んだというのです。
私たちは支援と宣教は一体のものと解しています。しかし支援活動の中、つまり与える側と受ける側、という特殊な心理状況の中では、特に聖霊の働きによって相手からの問いかけが起こることを期待し、また信じて、とにかく誠実に仕えることに徹していこうと心を定め、祈りつつ取り組んでいます。
コロサイ人への手紙の中でパウロは「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」との勧めに注目しています。支援の先に、福音を信じ受け入れ、そして信仰と、生き方が一つになったクリスチャンたちがこの町に起こされ、その彼らを通して支援の輪が広がっていくことを祈り、期待していきたいと願っています。
職員の人たちとも二日、三日となると自然なかたちで交流は深まるし、仕事ぶりや、不断の言動を通して信頼関係を築き、また「キリストを知る知識のかおり」を放つことになります。図書開設に関わる責任者の方々は避難所での支援活動の時からの関係者で、すでに信頼関係を築いている方々です。今回は、本来の仕事に復帰された彼らに仕えながらの支援となったわけです。
そういう意味では何よりも、しっかりした仕事をすることが確かな支援になるわけです。それだけに限られた時間で、なすべき仕事をしっかり教えていただき、その労に勝る仕事を成し遂げなければという緊張感がありました。とにかく真剣に最善の仕事ができるように一生懸命でした。さほど会話も仕事に関することでなければ広がらなかったのですが、それでも次第に慣れていく中で、会話が生まれます。特に3.11大震災当日のことがなにげなく話題に上りました。
あれから半年もなるというのに、つい最近のように話されます。だいぶ落ち着いた感じでしたが、何か心の整理の中でひっかるものがあるようにも思われました。地震発生後、保育園に子供を迎えに車を走らせていく途中で、避難する年配の方々から、車に乗せて、と何度も請われとそうです。ごめんなさい、子供を迎えに行くので、と断りながら走らせた時の心の葛藤や苦痛はこれまでにない経験であったようです。しかし、避難先でそのお年寄りの方々に再会し、無事であったこと、「誰も恨んでいないよ」との言葉に胸をなでおろしたというのです。生死を分ける緊張感の中での体験、その場に居合わせなければ知り得ない葛藤であったと思います。
そして翌日、チームの一人、日本人女性、エメリー姉妹がその彼女と個人的に福音のことに及ぶ深い対話に導かれたとのことです。そして、自分もクリスチャンとして生きていきたい、イエス様を信じたいと話されたというのです。クリスチャン生活をどうするのか、とまで話しが及んだというのです。
私たちは支援と宣教は一体のものと解しています。しかし支援活動の中、つまり与える側と受ける側、という特殊な心理状況の中では、特に聖霊の働きによって相手からの問いかけが起こることを期待し、また信じて、とにかく誠実に仕えることに徹していこうと心を定め、祈りつつ取り組んでいます。
コロサイ人への手紙の中でパウロは「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」との勧めに注目しています。支援の先に、福音を信じ受け入れ、そして信仰と、生き方が一つになったクリスチャンたちがこの町に起こされ、その彼らを通して支援の輪が広がっていくことを祈り、期待していきたいと願っています。
2011/08/19
これからの「南三陸町」
昨日、18日(木)、「南三陸町を支援するキリスト者ネットワーク」が現地の「ホテル観洋」で開催されました。南三陸町での支援活動、一つの新しい段階、展開に進もうとしています。午後1時からこれまで支援に関わってこられた方々、これから関わろうとされる方々、教会や諸団体が共に集まり、協力の可能性について話し合うことになりました。当初、30名以内と予想していたのですが、なんと60名ほどの方々が集まりました。
これまで関わっている方々の取り組み方は様々でしょう。その方針や理念はそれぞれ異なるものがあります。支援活動は行うが、教会建て上げはしないという団体、自分たちは教会建て上げをしないが、地域教会の働きを支援するという団体、また法人の性格上、教会建て上げに直接関われない団体もあります。逆に何かにつけ、伝道することを優先し、活動していこうというグループ、乱暴な言い方になるかもしれませんが、支援と回心を取引的に取り組んでいこうという方々もいないわけではありません。しかし、これは次第に成り立たなくなるだろうと思います。植民地的宣教は復活させない、日本の文化を尊重し、文化の中で新たな宣教戦略が生み出されることです。
しかし、最初に結論ありきで臨まないということ、これまで南三陸町に関わってきた方々が一同に会し、今後の支援と宣教、その協力のあり方を模索できればとの願いがありました。被災地の状況の変化も、避難所から仮設住宅など、大きく変わりつつあります。合わせて支援の在り方も変化に対応していく必要があります。そういう意味では時宜にかなった会合であったと思います。これからに期待しています。
そうした中で、私たちは宣教の大切さ、教会共同体の建て上げの大切さを明確に意識しつつも、もっと自然発生的に宣教が進むように考えています。見える福音としての支援活動を進める中で、その結果として、主に心を向ける人たちが起こされることです。それは支援だけでなく、福音に生きる、人の生き方にどのように関わるか、人の生き方にいかに聖書の真理を、言葉と行動で教え示していけるかに関わっているように思います。つまり、人道支援を超える支援を具体化する知恵が求められています。
また、宗教団体であるけれども、決して行政側の信を失わない、むしろ行政側との信頼関係による連携を保ちつつ、誠実な支援と自然発生的な宣教の実現を目指すことです。こうした支援のあり方を実践し、キリスト教団体に対する確かな評価や信頼を得ることができるような取り組みになればと思います。教会は地域、町の繁栄に寄与、貢献する存在でありたいのです。是非、それを実証していきたいと願っています。
そういう意味ではかなり長期戦の取り組みを想定する必要があります。同じ思いを共有していただける方々がどれだけネットワークに加わっていただけるか、どのように協力関係を築いていけるか、全く予想がつかないのですが、期待しています。
南三陸町に限らず、私たちがこの町の復興に寄与・貢献できるような仕方で支援と宣教を考えることができればと思います。目先の霊的な成果を記録していくのではなく、もっと大きなスケールで宣教を考えていこうとしています。そう言う意味では、関係者がさらに突っ込んだ意見交換が必要だと考えています。
こうした考えは聖書の意図であり、まず、神が聖別した神の民イスラエルに示し、そして奥義としての教会に継承されています。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」(エレミヤ29:4~7)
この神様の意図は異国の地で仕えるダニエルの生涯に結実しています。そして、まさにそれは新訳聖書の奥義としての教会の存在に継承されました。
「あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。
これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。
私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。」(テトス3:1、8、14)
「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」(ⅠペテロⅡ:12~15))
いずれにせよ、支援と宣教に当たって、キリスト教関係者が、現実的にはかなり難しさが伴うだろうと思いますが、しかし、互いに補完し合いながら支援と宣教に取り組むことは大切な視点だと思います。
これまで関わっている方々の取り組み方は様々でしょう。その方針や理念はそれぞれ異なるものがあります。支援活動は行うが、教会建て上げはしないという団体、自分たちは教会建て上げをしないが、地域教会の働きを支援するという団体、また法人の性格上、教会建て上げに直接関われない団体もあります。逆に何かにつけ、伝道することを優先し、活動していこうというグループ、乱暴な言い方になるかもしれませんが、支援と回心を取引的に取り組んでいこうという方々もいないわけではありません。しかし、これは次第に成り立たなくなるだろうと思います。植民地的宣教は復活させない、日本の文化を尊重し、文化の中で新たな宣教戦略が生み出されることです。
しかし、最初に結論ありきで臨まないということ、これまで南三陸町に関わってきた方々が一同に会し、今後の支援と宣教、その協力のあり方を模索できればとの願いがありました。被災地の状況の変化も、避難所から仮設住宅など、大きく変わりつつあります。合わせて支援の在り方も変化に対応していく必要があります。そういう意味では時宜にかなった会合であったと思います。これからに期待しています。
そうした中で、私たちは宣教の大切さ、教会共同体の建て上げの大切さを明確に意識しつつも、もっと自然発生的に宣教が進むように考えています。見える福音としての支援活動を進める中で、その結果として、主に心を向ける人たちが起こされることです。それは支援だけでなく、福音に生きる、人の生き方にどのように関わるか、人の生き方にいかに聖書の真理を、言葉と行動で教え示していけるかに関わっているように思います。つまり、人道支援を超える支援を具体化する知恵が求められています。
また、宗教団体であるけれども、決して行政側の信を失わない、むしろ行政側との信頼関係による連携を保ちつつ、誠実な支援と自然発生的な宣教の実現を目指すことです。こうした支援のあり方を実践し、キリスト教団体に対する確かな評価や信頼を得ることができるような取り組みになればと思います。教会は地域、町の繁栄に寄与、貢献する存在でありたいのです。是非、それを実証していきたいと願っています。
そういう意味ではかなり長期戦の取り組みを想定する必要があります。同じ思いを共有していただける方々がどれだけネットワークに加わっていただけるか、どのように協力関係を築いていけるか、全く予想がつかないのですが、期待しています。
南三陸町に限らず、私たちがこの町の復興に寄与・貢献できるような仕方で支援と宣教を考えることができればと思います。目先の霊的な成果を記録していくのではなく、もっと大きなスケールで宣教を考えていこうとしています。そう言う意味では、関係者がさらに突っ込んだ意見交換が必要だと考えています。
こうした考えは聖書の意図であり、まず、神が聖別した神の民イスラエルに示し、そして奥義としての教会に継承されています。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」(エレミヤ29:4~7)
この神様の意図は異国の地で仕えるダニエルの生涯に結実しています。そして、まさにそれは新訳聖書の奥義としての教会の存在に継承されました。
「あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。
これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。
私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。」(テトス3:1、8、14)
「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」(ⅠペテロⅡ:12~15))
いずれにせよ、支援と宣教に当たって、キリスト教関係者が、現実的にはかなり難しさが伴うだろうと思いますが、しかし、互いに補完し合いながら支援と宣教に取り組むことは大切な視点だと思います。
2011/06/14
復興に至る支援
南三陸町における今後の支援の在り方を探り、情報を得るためにボランティアチームと活動をしていたときに、そこで出会った一人の男性との話しに心が動きました。支援はありがたいが、しかし、自分たちもできることを取り組まなければならない、いつまでも支援に頼っているようではだめだと思っている、ということでした。ただで受けられるものはとにかく貰っておこうという者もいて自宅に支援物資を山のように集めている、善意の支援が人間をだめにしているというのです。
地域の責任者の言葉を借りれば中には「欲得」で支援物資に集まる者もいるということです。こうした話しは南三陸町に限りません。被災の程度によるのかもしれませんが、支援する側もただ物を提供するという手法が逆効果、人間性をいっそうゆがめてしまい、地域の人間関係まで壊れるようなこともあるという現実を見せられた思いです。
そうした話題の中で、その男性が世話になっている地域のことを話されました。南三陸町の浜地区から内陸に位置する入谷地区です。この地区の人たちは3.11後、自分たちが持っている米を拠出し合って、避難された方々にいち早くおにぎりを提供されました。互いに助け合う素晴らしい取り組みであったというのです。
私たちも単に物を運ぶ救援ではなく、本当に必要としている方々に必要なものを手渡せたることを願って取り組んでいます。このような取り組みを見て、そうであれば是非、入谷地区にも行って見て欲しい、公民館館長を紹介するので一度、訪ねてみて欲しいと言われました。入谷地区はいつも通りすがりで、一見、平穏そのものです。この地区にある小学校に避難されている方々のために炊き出しがなされていることは聞いておりました。
早速、13日(月)に公民館を訪問し、館長さんに面会することができました。ここは浜地区からはだいぶ離れているので、ここに避難されている方々は車で避難できた人たちで、そのまま避難所(小学校)に留まっているとのことです。確かにこの地区は、3.11当日、歩いて避難できる場所ではないようです。高台にある小学校が避難所になっています。ここには現在でも子供8名を含む約80名ほどの方々が避難生活をしています。その校庭には仮設住宅が建てられていました。そしてこの入谷地区には292人の方々がこの地区の住民、身内などに避難されているとのことです。
基本的には自立の方向にしっかりと動き出していることが見て取れました。「グリーンウェーブ入谷構想促進委員会」が建て上げられ、「事業開発部」を設け、1,「被災者ふれあい農園及び農産加工事業」2,「避難所内職センター推進事業」3,「被災地便利屋さん推進事業」を展開しようとしていることの説明を受けました。つまり、受ける支援から自立へ、被災し職を失った人たちのために雇用を生み出し、人の人たる本質的なもの、労働することを実現しようという取り組みです。
館長さんの言葉が重く響きました。大震災のあった一ヶ月くらいは本当に助け合う人間の素晴らしさ、その美しさを見ました。しかし、その後、多くの支援、様々な支援がなされるようになって、むしろ人間関係に齟齬が生じてしまった。また、地域共同体のエゴ、地域根性の出て、南三陸町という一体感を崩すようなことが起こっているというのです。
私たちもこの入谷地区のような確かな災害復興の主体的な取り組みにつながる支援でなければならないと思います。聖書の規範でもある額に汗して働くことの大切さ、家族の建て上げや支援、そしてその地域の繁栄に貢献できることです。まさに福音をしっかり受けとめた教会の本来の在り方であったと思います。
一面的なことで軽々に判断することを注意しなければなりませんが、物を運ぶ、提供するだけ、一時の必要のために「炊き出し」をするだけのことであったり、またいわゆる「宗教的」な集まりをする、集まっていることだけしか支援のゴールが見えないとしたら、いずれまた限界に突き当たってしまうだろうと思います。
それだけに、支援をどう展開し、継続していけるのか知恵が求められます。また、私たちの限界も自覚しています。それだけに本当に理念を共有できる方々と共に連携し合いながら取り組まなければならないだろうと思います。
地域の責任者の言葉を借りれば中には「欲得」で支援物資に集まる者もいるということです。こうした話しは南三陸町に限りません。被災の程度によるのかもしれませんが、支援する側もただ物を提供するという手法が逆効果、人間性をいっそうゆがめてしまい、地域の人間関係まで壊れるようなこともあるという現実を見せられた思いです。
そうした話題の中で、その男性が世話になっている地域のことを話されました。南三陸町の浜地区から内陸に位置する入谷地区です。この地区の人たちは3.11後、自分たちが持っている米を拠出し合って、避難された方々にいち早くおにぎりを提供されました。互いに助け合う素晴らしい取り組みであったというのです。
私たちも単に物を運ぶ救援ではなく、本当に必要としている方々に必要なものを手渡せたることを願って取り組んでいます。このような取り組みを見て、そうであれば是非、入谷地区にも行って見て欲しい、公民館館長を紹介するので一度、訪ねてみて欲しいと言われました。入谷地区はいつも通りすがりで、一見、平穏そのものです。この地区にある小学校に避難されている方々のために炊き出しがなされていることは聞いておりました。
早速、13日(月)に公民館を訪問し、館長さんに面会することができました。ここは浜地区からはだいぶ離れているので、ここに避難されている方々は車で避難できた人たちで、そのまま避難所(小学校)に留まっているとのことです。確かにこの地区は、3.11当日、歩いて避難できる場所ではないようです。高台にある小学校が避難所になっています。ここには現在でも子供8名を含む約80名ほどの方々が避難生活をしています。その校庭には仮設住宅が建てられていました。そしてこの入谷地区には292人の方々がこの地区の住民、身内などに避難されているとのことです。
基本的には自立の方向にしっかりと動き出していることが見て取れました。「グリーンウェーブ入谷構想促進委員会」が建て上げられ、「事業開発部」を設け、1,「被災者ふれあい農園及び農産加工事業」2,「避難所内職センター推進事業」3,「被災地便利屋さん推進事業」を展開しようとしていることの説明を受けました。つまり、受ける支援から自立へ、被災し職を失った人たちのために雇用を生み出し、人の人たる本質的なもの、労働することを実現しようという取り組みです。
館長さんの言葉が重く響きました。大震災のあった一ヶ月くらいは本当に助け合う人間の素晴らしさ、その美しさを見ました。しかし、その後、多くの支援、様々な支援がなされるようになって、むしろ人間関係に齟齬が生じてしまった。また、地域共同体のエゴ、地域根性の出て、南三陸町という一体感を崩すようなことが起こっているというのです。
私たちもこの入谷地区のような確かな災害復興の主体的な取り組みにつながる支援でなければならないと思います。聖書の規範でもある額に汗して働くことの大切さ、家族の建て上げや支援、そしてその地域の繁栄に貢献できることです。まさに福音をしっかり受けとめた教会の本来の在り方であったと思います。
一面的なことで軽々に判断することを注意しなければなりませんが、物を運ぶ、提供するだけ、一時の必要のために「炊き出し」をするだけのことであったり、またいわゆる「宗教的」な集まりをする、集まっていることだけしか支援のゴールが見えないとしたら、いずれまた限界に突き当たってしまうだろうと思います。
それだけに、支援をどう展開し、継続していけるのか知恵が求められます。また、私たちの限界も自覚しています。それだけに本当に理念を共有できる方々と共に連携し合いながら取り組まなければならないだろうと思います。
2011/04/30
何を見、考え、何を目指すのか
巨大地震発生から一ヶ月半が経ちました。しかし、今まさに救援から復興活動へと動き始めたと言えそうです。さらなる創造的取り組みのために知恵を必要としています。
とりわけ、神の民として歩む者として、この支援活動の中で、いったい何を考え、何に関心を持ち、何を見て、何を目指して活動しているのか、自らの心、競争心や自己満足、高名心などを点検し、かつ冷静に観察しながら取り組みたいと心を新たにしています。
今回の災害の規模、広がり、深刻さは計りがたいものがあります。そうした中でのクリスチャン、クリスチャン団体、諸教会の支援活動は着実に広がっています。その取り組みの中で教会家族が新たに生まれるならばと夢見ました。しかし夢は現実に、思いがけない仕方でその方向性が見えてきました。日本アライアンス・ミッションがこの大震災を期に支援活動の延長線上に主の教会共同体を建て上げていく決断をされたとの知らせをいただきました。
クリスチャン人口が少ない中で、また全体から見れば数少ない件数とは言え、教会が津波に飲み込まれ流出してしまうことは大きな出来事でした。改めて教会の存在、しかも単に建物でない、その地域に生きるクリスチャン共同体の大切さを考えさせられています。
このような大震災による惨状の中で何が本当に大切なものか、何がいつまでも残るものかを考えさせられました。しかも教会、クリスチャンの存在そのものが問われました。がれきの中に立てられた十字架はシンボルです。そこに生きるクリスチャンたちがあってこその輝きです。今回の震災は、建物は建っていても、また建てても、教会がないという事態にならないのか、クリスチャンにとって、とてつもなく大きな、かつ大切なことを考えさせられていると思います。
福島原発の災害事故に伴う強制避難とか、自主避難による教会の存続を考えたとき、教会が何であるのか明確になりました。教会はある、しかしそこに集えないのです。誰もが分かっていると思いますが、教会は建物ではありません。建物は一つの手段に過ぎません。
このよう中で黙々と、痛んでいる人々を見つけ出しては援助の手を差し伸べているクリスチャンたち、教会があることを知っています。その取り組みの中でその愛に動かされ、愛の神の真実に生きようとしている方々が起こされていることを聞いています。アメージングネットワークミッションもその働きを実現にしているクリスチャン共同体の一つです。
他にも支援活動する人たち、自分たちのユニフォームを脱ぎ捨て、普段着で主の愛を実現する取り組みをしておられる方々がいます。仮に大きなパラチャーチの支援団体とは言え、多くのクリスチャンや善意ある人たちの捧げものによって成り立っています。ですから、個々人の善意を、善意を持って届けるとしたら、ユニフォームでなく普段着で人々に近づいてこそ、真の支援と言えるでしょう。そしてそのような支援が真の教会共同体と生み出していくと期待します。まさに初代教会はそうでした。教会、真の共同体に注目し、単なるパフォーマンスに陥らないように注意したいと思います。
今、この時に求められるのは、クリスチャンの真実な行動、行為です。今こそ聖書の規範、原則の基づいて行動すべきときでしょう。その時、教会は教会として存続すると思います。そのような主の心を実現する取り組みは、今、求められているように思います。
こうした方々取り組み、決意は、心からの支援、援助の延長線上に神の理想共同体、教会の存在を見据えています。今まさに、必要としている真実の愛の業によって、地域の繁栄に貢献できる生ける教会家族共同体がこの東北の地、あちこちに生み出されることを夢見、祈りたいと思います。
とりわけ、神の民として歩む者として、この支援活動の中で、いったい何を考え、何に関心を持ち、何を見て、何を目指して活動しているのか、自らの心、競争心や自己満足、高名心などを点検し、かつ冷静に観察しながら取り組みたいと心を新たにしています。
今回の災害の規模、広がり、深刻さは計りがたいものがあります。そうした中でのクリスチャン、クリスチャン団体、諸教会の支援活動は着実に広がっています。その取り組みの中で教会家族が新たに生まれるならばと夢見ました。しかし夢は現実に、思いがけない仕方でその方向性が見えてきました。日本アライアンス・ミッションがこの大震災を期に支援活動の延長線上に主の教会共同体を建て上げていく決断をされたとの知らせをいただきました。
クリスチャン人口が少ない中で、また全体から見れば数少ない件数とは言え、教会が津波に飲み込まれ流出してしまうことは大きな出来事でした。改めて教会の存在、しかも単に建物でない、その地域に生きるクリスチャン共同体の大切さを考えさせられています。
このような大震災による惨状の中で何が本当に大切なものか、何がいつまでも残るものかを考えさせられました。しかも教会、クリスチャンの存在そのものが問われました。がれきの中に立てられた十字架はシンボルです。そこに生きるクリスチャンたちがあってこその輝きです。今回の震災は、建物は建っていても、また建てても、教会がないという事態にならないのか、クリスチャンにとって、とてつもなく大きな、かつ大切なことを考えさせられていると思います。
福島原発の災害事故に伴う強制避難とか、自主避難による教会の存続を考えたとき、教会が何であるのか明確になりました。教会はある、しかしそこに集えないのです。誰もが分かっていると思いますが、教会は建物ではありません。建物は一つの手段に過ぎません。
このよう中で黙々と、痛んでいる人々を見つけ出しては援助の手を差し伸べているクリスチャンたち、教会があることを知っています。その取り組みの中でその愛に動かされ、愛の神の真実に生きようとしている方々が起こされていることを聞いています。アメージングネットワークミッションもその働きを実現にしているクリスチャン共同体の一つです。
他にも支援活動する人たち、自分たちのユニフォームを脱ぎ捨て、普段着で主の愛を実現する取り組みをしておられる方々がいます。仮に大きなパラチャーチの支援団体とは言え、多くのクリスチャンや善意ある人たちの捧げものによって成り立っています。ですから、個々人の善意を、善意を持って届けるとしたら、ユニフォームでなく普段着で人々に近づいてこそ、真の支援と言えるでしょう。そしてそのような支援が真の教会共同体と生み出していくと期待します。まさに初代教会はそうでした。教会、真の共同体に注目し、単なるパフォーマンスに陥らないように注意したいと思います。
今、この時に求められるのは、クリスチャンの真実な行動、行為です。今こそ聖書の規範、原則の基づいて行動すべきときでしょう。その時、教会は教会として存続すると思います。そのような主の心を実現する取り組みは、今、求められているように思います。
こうした方々取り組み、決意は、心からの支援、援助の延長線上に神の理想共同体、教会の存在を見据えています。今まさに、必要としている真実の愛の業によって、地域の繁栄に貢献できる生ける教会家族共同体がこの東北の地、あちこちに生み出されることを夢見、祈りたいと思います。
2011/04/22
今こそ真の教会が
この大震災のただ中にある人たちに対する心からの援助・支援行為の先に真の教会家族の誕生というのは夢物語なのでしょうか。
その真の教会とは制度とか教派の伝統、組織に固められたものでもなく、ただ集会出席だけの教会でもなく、知的な満足だけで、生活の変革につながらない聖書学習会でもなく、また超自然的なこと、特殊な宗教的儀礼にのみ焦点を当てようとする日常的生活から離れた宗教集団でもありません。
そうではなく、家族を建て上げ、額に汗して働き、自らの必要と家族の支え、地域の繁栄に寄与する人たち、 また「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」このようなクリスチャン共同体、しかもその地域の文化の中で神学する共同体が建て上げられるならば、この被災した地域社会に求められる存在、なくてならない共同体と言えるでしょう。
さまざまな支援団体、教会が活動していますが、この大切な視点に注目し、互いに連携しあえたらと思います。
被災地のただ中にある教会の中心的なご夫妻が、地理的にも離れたところで休息しているとお聞きしました。多くの援助グループ、教会、団体が次々と訪れます。訪問される方はそれなりの思いと勢いがあり、支援したいという熱い思いで、しかも自己犠牲を厭わず励んでいます。
一方、迎える側は被災のただ中で、来訪者は嬉しい反面、肉体的にも精神的にも限界に達してしまいます。気づかないうちに疲労が蓄積します。善意は純粋に善意です。同時に受ける側の限度を思いやる必要があると思います。
間もなく大型連休、ゴールデンウイークがやってきます。民間も教会もかなりの数のボランティア志願者数があるのではないでしょうか。昨日の会合で、理想的な形で被災地の地域共同体の中に活躍する教会のリーダーに会いました。この連休は休むことにした、との発言、その思い切った決断に本当に良かったと思いました。
かなりの長期戦が予想されます。地元にある教会は、この被災地の地元に残り続けます。途中で折れてはならないのです。そのために休むことがどうしても必要です。長く続けるには疲労をある程度解消する必要があります。まさに地区教会の主体性があってこそ、援助活動は実を結びます。
こうした救援活動は被災地だけの教会に限らず、全国の諸教会にも問いかけられていると思います。福島の原発関係では着の身着のままで避難した人たちが大多数です。家族が切り離されるような事態にまで発展しています。教会の取り組むべき支援・援助活動はすぐ近くにあるかもしれません。
この災害復興支援のゴールはどこにあるのか、再度確認し、共に励みたいものです。明日も、被災地にいる方々の傍らに座る予定です。
その真の教会とは制度とか教派の伝統、組織に固められたものでもなく、ただ集会出席だけの教会でもなく、知的な満足だけで、生活の変革につながらない聖書学習会でもなく、また超自然的なこと、特殊な宗教的儀礼にのみ焦点を当てようとする日常的生活から離れた宗教集団でもありません。
そうではなく、家族を建て上げ、額に汗して働き、自らの必要と家族の支え、地域の繁栄に寄与する人たち、 また「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」このようなクリスチャン共同体、しかもその地域の文化の中で神学する共同体が建て上げられるならば、この被災した地域社会に求められる存在、なくてならない共同体と言えるでしょう。
さまざまな支援団体、教会が活動していますが、この大切な視点に注目し、互いに連携しあえたらと思います。
被災地のただ中にある教会の中心的なご夫妻が、地理的にも離れたところで休息しているとお聞きしました。多くの援助グループ、教会、団体が次々と訪れます。訪問される方はそれなりの思いと勢いがあり、支援したいという熱い思いで、しかも自己犠牲を厭わず励んでいます。
一方、迎える側は被災のただ中で、来訪者は嬉しい反面、肉体的にも精神的にも限界に達してしまいます。気づかないうちに疲労が蓄積します。善意は純粋に善意です。同時に受ける側の限度を思いやる必要があると思います。
間もなく大型連休、ゴールデンウイークがやってきます。民間も教会もかなりの数のボランティア志願者数があるのではないでしょうか。昨日の会合で、理想的な形で被災地の地域共同体の中に活躍する教会のリーダーに会いました。この連休は休むことにした、との発言、その思い切った決断に本当に良かったと思いました。
かなりの長期戦が予想されます。地元にある教会は、この被災地の地元に残り続けます。途中で折れてはならないのです。そのために休むことがどうしても必要です。長く続けるには疲労をある程度解消する必要があります。まさに地区教会の主体性があってこそ、援助活動は実を結びます。
こうした救援活動は被災地だけの教会に限らず、全国の諸教会にも問いかけられていると思います。福島の原発関係では着の身着のままで避難した人たちが大多数です。家族が切り離されるような事態にまで発展しています。教会の取り組むべき支援・援助活動はすぐ近くにあるかもしれません。
この災害復興支援のゴールはどこにあるのか、再度確認し、共に励みたいものです。明日も、被災地にいる方々の傍らに座る予定です。
2011/04/18
教会を通してなされる神のみ業
ワールドビジョン、国際飢餓対策機構、クラッシュジャパンにしても、それぞれベースキャンプとなる拠点を各震災地により密着できるように広げ取り組み始めています。それは救済事業の展開としては当を得たことであると言えます。救援物資や人材の派遣ではより効率よく、より迅速に展開できるようになるからです。救援の内容も復興の段階に応じた変化により的確な対応ができることでしょう。
しかし、こうした働きはある程度長期戦の取り組みになるとは言え、それでもやはり、いつかは引き上げる時が来ます。その時にどうなるか。その後どうなるのか。神の国のみ業は着実に継続されるのだろうか。こうした大切な方向性をしっかり見据えたいと思います。
やはり、その救援活動と共に教会があり、広がるベースキャンプの先に教会が存在していないなら、皆無とは言えないまでも、これまでの尊い働きがもったいないし、いわゆるキリスト教的慈善活動に終わってしまいかねないと案じるのは私たちだけではないだろうと思います。
もちろん、災害発生と共に行動した様々な救援活動は、地球よりも重いと言われる一人のいのちをつなぐとても大切な働きをなされたと思います。特に今回は津波の巻き込まれながらも助け出された人たち、ずぶ濡れでも着替えはない、汚れを落とすお湯もない、食べ物も飲み物も何もない中に駆けつけた救援ボランティアの働きは評価してあまりある行動であったと思います。そしてその後も続けられたいのちをつなぐ取り組みによってどれだけの人を勇気づけたか、尊いいのちをつなぐことになったか、まさに愛そのものであったと思います。
そして様々な復興プログラムが進むにつれ、その拠点、ベースキャンプが教会であるか教会と共にあること、さらに支援活動の先に確かな教会があることが理想的であると考えています。いつまでも残るものは神の教会共同体であるからです。
未曾有の大震災に見舞われた日本、世界中の教会が関心を持ち、支援活動がなし続けられています。しかし、このもっとも大切な教会という視点、その理念を明確にして取り組んでいけるかどうか、真剣に考え祈りたいと思います。単に人道的な働きとして記録されるだけの取り組みに終わらないように祈り、知恵を尽くしたいと思います。
しかし、こうした働きはある程度長期戦の取り組みになるとは言え、それでもやはり、いつかは引き上げる時が来ます。その時にどうなるか。その後どうなるのか。神の国のみ業は着実に継続されるのだろうか。こうした大切な方向性をしっかり見据えたいと思います。
やはり、その救援活動と共に教会があり、広がるベースキャンプの先に教会が存在していないなら、皆無とは言えないまでも、これまでの尊い働きがもったいないし、いわゆるキリスト教的慈善活動に終わってしまいかねないと案じるのは私たちだけではないだろうと思います。
もちろん、災害発生と共に行動した様々な救援活動は、地球よりも重いと言われる一人のいのちをつなぐとても大切な働きをなされたと思います。特に今回は津波の巻き込まれながらも助け出された人たち、ずぶ濡れでも着替えはない、汚れを落とすお湯もない、食べ物も飲み物も何もない中に駆けつけた救援ボランティアの働きは評価してあまりある行動であったと思います。そしてその後も続けられたいのちをつなぐ取り組みによってどれだけの人を勇気づけたか、尊いいのちをつなぐことになったか、まさに愛そのものであったと思います。
そして様々な復興プログラムが進むにつれ、その拠点、ベースキャンプが教会であるか教会と共にあること、さらに支援活動の先に確かな教会があることが理想的であると考えています。いつまでも残るものは神の教会共同体であるからです。
未曾有の大震災に見舞われた日本、世界中の教会が関心を持ち、支援活動がなし続けられています。しかし、このもっとも大切な教会という視点、その理念を明確にして取り組んでいけるかどうか、真剣に考え祈りたいと思います。単に人道的な働きとして記録されるだけの取り組みに終わらないように祈り、知恵を尽くしたいと思います。
2011/04/15
創造的支援
救援物資による支援も教会を拠点にその地域に届けられる仕組みは着実に広がっているように思います。同時に、継続的な支援を考えると、これまでと同様、本当に必要な人に救援物資を届けられるためにはより確かな情報を得る必要があります。それには、自らの足で被災地を歩き、必要を見つけ出すほかはないようです。あるいはそのように動いている方から情報を得ることです。
仮に、今日、明日どうするかの緊急時の中に置かれているときは、なにがしかの救援物資を手渡すことができます。しかし、命をつなぐ支援を受けた方でも、住宅を失った人であったり、あるいは後片付け、掃除をすれば住めるようになる方であれば、かつてのように日常生活を取り戻す、失った生活用品を取り戻すには相当の資金を必要としています。とりわけ自力で自分の生活を再建できる見通しが立つようになる、あるいは再建しようと心が動き出すまで、様々、有効な支援が求められます。
お会いして被災状況を聞くと本当に気の毒です。一人の被災者の情況を聞くだけで、いったい自分たちに何ができるのかと途方に暮れます。仮にこのような大震災でゼロになった方々、また1000万円とか2000万円、何千万の借財が残った人たちであれば、その先に抱える課題の解決策までは見通すことは容易ではありません。何をもっとも必要としていますか、との問いに「お金です」と応えるのは正直なところ、本当であろうと思います。
災害復興支援SBSネットワークを介しても支援金が届けられています。原則に従って速やかに届けるようにしています。もちろんできる範囲は限られています。
そうした中で温泉に招待する取り組みはこの時点で、もっとも喜ばれる取り組みのひとつのようです。この近くの秋保温泉にしても、作並温泉にしても宿泊客の来る前の日中に日帰り温泉を提供しています。それを利用して避難所や被災地の人たちを温泉に送り迎えするボランティアは大いに喜ばれています。すでに何百枚もの入浴券と送り迎えの車を用意してくださった方もいるようで、実際にその取り組みが始まっています。今この時の温泉浴は、損失や負債はなくならないけれど、その課題に向かって生きようとする活力は生まれます。
岩手の教会でも被災地から温泉一泊の支援を始めようとしていることを聞きました。迎える温泉旅館やホテルにも経済的波及効果も生まれるような取り組みをしようとしています。理想的な取り組みです。このために献げてくださる方がいるなら、時宜にかなった支援活動になると思います。
支援活動の現場に立ってみて考えさせられることですが、支援活動は単純ではない、情況を見極め、被災地に置かれた人々を振る立たせていける、より効果的な支援を創造していくことが求められます。
継続的な被災者支援は状況に応じた支援、創造的な支援を生み出すことができるどうかにあるようです。それには現場に立つことです。
主よ、知恵をください。力をください。創造力を与えてください。共に担える働き人、支援者を起こしてください。
仮に、今日、明日どうするかの緊急時の中に置かれているときは、なにがしかの救援物資を手渡すことができます。しかし、命をつなぐ支援を受けた方でも、住宅を失った人であったり、あるいは後片付け、掃除をすれば住めるようになる方であれば、かつてのように日常生活を取り戻す、失った生活用品を取り戻すには相当の資金を必要としています。とりわけ自力で自分の生活を再建できる見通しが立つようになる、あるいは再建しようと心が動き出すまで、様々、有効な支援が求められます。
お会いして被災状況を聞くと本当に気の毒です。一人の被災者の情況を聞くだけで、いったい自分たちに何ができるのかと途方に暮れます。仮にこのような大震災でゼロになった方々、また1000万円とか2000万円、何千万の借財が残った人たちであれば、その先に抱える課題の解決策までは見通すことは容易ではありません。何をもっとも必要としていますか、との問いに「お金です」と応えるのは正直なところ、本当であろうと思います。
災害復興支援SBSネットワークを介しても支援金が届けられています。原則に従って速やかに届けるようにしています。もちろんできる範囲は限られています。
そうした中で温泉に招待する取り組みはこの時点で、もっとも喜ばれる取り組みのひとつのようです。この近くの秋保温泉にしても、作並温泉にしても宿泊客の来る前の日中に日帰り温泉を提供しています。それを利用して避難所や被災地の人たちを温泉に送り迎えするボランティアは大いに喜ばれています。すでに何百枚もの入浴券と送り迎えの車を用意してくださった方もいるようで、実際にその取り組みが始まっています。今この時の温泉浴は、損失や負債はなくならないけれど、その課題に向かって生きようとする活力は生まれます。
岩手の教会でも被災地から温泉一泊の支援を始めようとしていることを聞きました。迎える温泉旅館やホテルにも経済的波及効果も生まれるような取り組みをしようとしています。理想的な取り組みです。このために献げてくださる方がいるなら、時宜にかなった支援活動になると思います。
支援活動の現場に立ってみて考えさせられることですが、支援活動は単純ではない、情況を見極め、被災地に置かれた人々を振る立たせていける、より効果的な支援を創造していくことが求められます。
継続的な被災者支援は状況に応じた支援、創造的な支援を生み出すことができるどうかにあるようです。それには現場に立つことです。
主よ、知恵をください。力をください。創造力を与えてください。共に担える働き人、支援者を起こしてください。
2011/04/09
地域になくてはならない教会
「災害復興支援SBSネットワーク」建て上げにはいくつかの理由と目的があります。どのような支援団体であっても、同じ思いであると思いますが、被災地にある教会がいち早く回復し、置かれた地域の復興、繁栄に寄与できるようになる支援を実現することです。
この思いは他人任せ、あるいは物量的に大きな扱いをする団体に依存的であってはならないし、むしろ主体性を明確に持って活動すべきであると考えています。この主体性を持つことが真の協力関係を築いていけると思います。私たちのできることには限りがあります。と言って手をこまねいている訳にもいかないのです。
ですからまず教会のリーダーである牧師が憂いなく牧会活動とその働きにおいてリーダーシップを発揮できる一助になる取り組みを大切にします。献げられた贈り物は優先的に被災地のリーダーたちに用いていただくことです。そのためにはできるだけ早めにお届けしたいと思っています。
そしてその教会家族の一員が被災し痛んでいるなら、まず一歩でも半歩でも前に踏み出せる支援が実現できれば願っています。
まさに被災地のただ中にある教会からお手紙が届きました。主要メンバーの家族が津波で何かも失ってしまいました。今は教会から遠く離れ、親戚の家に身を寄せているというのです。他にも自宅が壊滅的な被害を受けた方もいます。被災したクリスチャン家族が痛手を負うだけでなく、その教会も痛みを担うことになります。とりわけ、東北の地で宣教する教会の多くは日本の平均的な教会にも及ばない群れ、主の家族と思われます。
まず一歩前進のために力になれるならばこの上ない喜びです。教会の繁栄が地域の繁栄になるよう祈り、協力の手を差し伸べていただける方々が増し加えられるようにと願っています。献げてくださる方々もこの思いを共有していただけると信じています。
今回のこの巨大地震によってもたらされた被害は巨大です。継続できる支援、長い目で支援し続ける支援の在り方を模索しながら、次善の策を見出されればと思います。地域になくてはならない教会共同体が実現するくらいの取り組みでありたいと願っています。
この思いは他人任せ、あるいは物量的に大きな扱いをする団体に依存的であってはならないし、むしろ主体性を明確に持って活動すべきであると考えています。この主体性を持つことが真の協力関係を築いていけると思います。私たちのできることには限りがあります。と言って手をこまねいている訳にもいかないのです。
ですからまず教会のリーダーである牧師が憂いなく牧会活動とその働きにおいてリーダーシップを発揮できる一助になる取り組みを大切にします。献げられた贈り物は優先的に被災地のリーダーたちに用いていただくことです。そのためにはできるだけ早めにお届けしたいと思っています。
そしてその教会家族の一員が被災し痛んでいるなら、まず一歩でも半歩でも前に踏み出せる支援が実現できれば願っています。
まさに被災地のただ中にある教会からお手紙が届きました。主要メンバーの家族が津波で何かも失ってしまいました。今は教会から遠く離れ、親戚の家に身を寄せているというのです。他にも自宅が壊滅的な被害を受けた方もいます。被災したクリスチャン家族が痛手を負うだけでなく、その教会も痛みを担うことになります。とりわけ、東北の地で宣教する教会の多くは日本の平均的な教会にも及ばない群れ、主の家族と思われます。
まず一歩前進のために力になれるならばこの上ない喜びです。教会の繁栄が地域の繁栄になるよう祈り、協力の手を差し伸べていただける方々が増し加えられるようにと願っています。献げてくださる方々もこの思いを共有していただけると信じています。
今回のこの巨大地震によってもたらされた被害は巨大です。継続できる支援、長い目で支援し続ける支援の在り方を模索しながら、次善の策を見出されればと思います。地域になくてはならない教会共同体が実現するくらいの取り組みでありたいと願っています。
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